里山で遊ぶ

ゆるい午後 遠回りする 帰り道
のどかな午後の時間を満喫できたらと思う。

学生時代 Ⅷ   ~ 落陽 ~

学生時代の下宿 各棟には大きなアルミ(黄銅色)の鍋が1個ありました。

 

鍋は各部屋の持ち回りで 仕送りのお金が無くなってくると 
みんなで すいとんを食べるというしきたりがありました。
大体は 主(ぬし)の部屋に みんなが集まり 
マガジンかジャンプの表紙の上で小麦粉をこねて親指くらいの大きさにし
主(ぬし)の部屋のドアを開けっぱなしにして
玄関脇のコンロに乗せた大きなアルミの鍋を目がけて 

それを投げ込みました。
ほとんどの小麦粉の団子は 鍋の中に入るのですが
たまには 壁に当たったり 玄関のスノコの上に落ちたりします。
鍋を外した団子は そのまま放置してるので 周囲は真っ黒な団子で凸凹肌様態です。
また 周囲に醤油汁が飛び散って 玄関周辺の廊下はネトネトしてるので
裸足で歩くと気持ち悪く みんな 部屋への出入りは窓を使用して
玄関での出入りはしませんでした。


このすいとんを食べて 次の仕送りがくるまで飢えを凌いでいました。


主(ぬし)の実家が農家らしく乾燥したシイタケや切り干し大根が送られてきていて、
それを鍋入れると美味しくはありませんが 最高の味付けとなりました。
他のメンバーは実家からの送られてきた魚の缶詰などを鍋に入れてましたが、
時々 お金がないのにネギや白菜が入ることもありました。


下宿の隣に農家の畑がありました。
そこの子供の家庭教師を 昔 先輩がしていて その時
『畑の野菜を自由に持って行っていいよ。ただ、持って行ったときは連絡してね。』
と言われた事があるみたいで 

それから以降 困ったときに 下宿先では野菜を頂いてました。
私の代になると その農家の人の顔も分かりませんでしたが、
主(ぬし)から『後で言っておくから 気にしないで野菜を持ってきな。』
と言われ 時折 畑からネギを持ってきていました。
主が農家の人に連絡したかどうかは 分かりませんでした。 

また 私が始めて燻製を知ったのは ここの下宿でした。
主は あまり下宿先に居ることはありませんでしたが、

フラッと戻ってくると
麻雀かギターかアドバルーンをあげるバイトをしていました。


時折 下宿先の庭で 段ボールを使って魚の燻製を作っていました。


私が学生の頃は どこでも よく 焚火をしていました。
下宿から出る週刊漫画の本や新聞紙を用いて 焚火をしてました。
主はこの焚火を利用して燻製を作ってました。


主はデパートの屋上などで上げるアドバルーンのバイトを よくやってました。
風が強くなると アドバルーンは危ないので撤収しなければならず、
そのアドバルーンの見張りをする仕事です。
デパートの屋上でパイプ椅子に座ってるだけの簡単なバイトです。
主は『イスに座ってジャンプを読んでるだけでバイト代が貰える』

と 喜んでました。

主は このアドバルーンを上げる会社の社長と仲良しでした。
社長が釣ってきた小さな魚を 主がバケツに沢山入れて持って帰る事がありました。


その時 下宿先では みんなが集まって魚の燻製を作りました。
燻製にすると日持ちが良いので 1週間くらい 毎日 魚にありつけるからです。
焚火をして 火が弱くなったところで 桜のチップをばらまきます。
主は根っからの武士でした。
燻製用の桜のチップを買うお金があるなら 卵を買った方が良いと思うのに 
卵より桜の燻した香りの燻製を選ぶような人でした。
焚火の両脇に塀で使うブロックを置いて その上に 片方のフタを削除し
反対側のフタに沢山の穴を開けた段ボールを置きます。
小さな魚の尻尾のところをタコ糸で縛って一匹ずつ段ボールの中に吊るしました。
頭を下にして燻製にする方が美味しいので 面倒くさくても1匹ずつ吊るしました。



みんなで燻製が出来上がるまで ひたすら待ちました。
待ってる時の何とも言えないな気持ちを 
今でも 時折 フッと思い出すことがあります。


私が生まれ育ったところは 夕陽が有名で 観光の一つですが、
でも、私の中での一番の夕陽は 能登半島で見た夕陽です。
吉田拓郎の『落陽』の出だしの歌詞と同じ光景でした。



落陽 / 吉田拓郎 / 歌詞付き「音声 Live Ver. 」

学生時代 Ⅶ     ~ この道を ~

我が家の近くに コンクリートブロックで造った小さな小屋があります。
その小屋を見る度に 下宿時代にはいってた風呂場を思い出すんです。 
見た目はこんな感じで 風呂場は一回り大きいサイズだった記憶があります。
 

小屋の中は 4畳半くらいの大きさで 左側に灯油で沸かす風呂、
右側に脱水機が壊れた洗濯機と湿気で黒ずんだテーブルが置いてありました。
風呂場のドアは 蝶番をネジで止めてる角材が湿気で腐って
ドアは外れてしまい ブロック塀に立て掛けていました。
外からは 風呂場の内部は 丸見えです。
下宿は 男ばっかりだったので 特に誰も気にしませんでしたが...


基本は 棟ごとに順番で風呂を沸かして 入ってましたが、
風呂に入りたい時には 勝手に風呂を沸かして 自由に入ることが出来ました。


誰かが風呂を沸かし入った後、次に入る場合は 特に順番は無く 早い者順でした。
私の部屋の窓からは 直接 風呂場内を見ることができました。  

なので 誰かが風呂を出ると同時に 窓から風呂場に直行しました。
右側の棟の人は 風呂場の状況を見ることが出来ないので
時折 先を越されると ベンチに座って 順番待ちをしていました。


私の部屋の脇に 何故か バス停と赤いコカコーラのベンチがありました。 

         

バス停は 私が下宿に入る前からありました。
誰かが持ってきたんだと思いますが かなり重いです。
コカコーラのベンチは 私が下宿に入った後から 突然 置いてありました。
これも 重くて とても一人で持ってくることは出来ないと思います。


実は 風呂場にあるテーブルは湿気でボロボロになっていて
脱いだ服をテーブルに置くと汚れるので 置くわけにもいかないので 
ほぼ全員 自分の部屋で服を脱いで 窓から裸になって風呂場に行ってました。


なので 普通は先を越されると 裸なので 部屋に戻るのですが
面倒くさがって 裸でベンチに座って 順番待ちをする先輩がいました。
私の部屋の窓を叩き『マガジンか、Gutsか、貸して。』と言うので 貸しますが、
『ギター貸して。』と言われた時は さすがに 

ギターに先輩のアソコが押しつけられると思うと

ちょっと躊躇しましたねぇ~


今思えば 青空の下 裸で赤いベンチに座って漫画を読んでる若い男がいたら
通報されてしまいますよね。
良いとは思いませんが 金がなくても 自由と言えば自由で...


学生時代は 何でもありだったように思います。
当時は やりたいことやって50歳くらいで死ぬんだろうなぁ~と

漠然と思ってましたが
今 60歳を超え 当時の事も 思い出してみるのですが、
やっぱり それでも これからも のらりくらりと生きていくんだろうなぁ~



この道を