里山で遊ぶ

ゆるい午後 遠回りする 帰り道
のどかな午後の時間を満喫できたらと思う。

母と     ~ 無縁坂 ~

私が幼稚園に通ってた頃の話です。
兄と二人で台所へ行くと 
母は大きなフライパンで親子丼を作ってました。
兄は 卵を手に持つと
私の頭で 卵の殻を割ろうとしました。
TVか何かのギャグを見て 私の頭で卵を割りたかったようです。
現在の卵と違って 当時の卵の殻は とても分厚くて固かったんです。
卵の殻は割れませんでした。
石で殴られたような痛さで 私は大泣きをしました。
兄は 母に怒られて しょぼんとした姿をしてました。

兄が小学校の遠足の日 
朝早くから リュックを背負って 庭を走り回ってました。
私は 兄を追いかけて 一緒に庭を走り回ってました。
兄は 学校へ行きました。
私は てっきり 兄と一緒に遠足に行くものだと思ってました。
遠足に連れて行ってもらえないことが分ると
私は母の背中に隠れて 大泣きをしました。
母は 可愛そうに思ったのか 私を連れて 
松江城がある城山公園の桜を見に行きました。


私が高校生の頃の母の記憶は 
縁側で編み物や縫い物をしてる後ろ姿です。
庭を 風が吹き抜けると
柿の木からの 木漏れ日の影が 母の背中を動き回り
まるで 影が鬼ごっこをしてるように見えました。


回転寿司店に一人で入り カウンターに座りました。
向かい側のボックス席に母、兄、妹と思われる家族が座っていました。
母親は明らかに買ったばかりと思われるピンク色のカーデガンを着ていました。
兄は新しいスーツとネクタイをしていました。
直感ですが、 兄が就職して初めての給料日に

母親にカーデガンをプレゼントした後、
家族みんなで この回転寿司店に来たのではないかと思われました。
まだ、少しだけやんちゃな面影が残っている髪形の兄が妹に、
『何でも好きな物を食べてね。』と言ってました。
妹はお母さんの腕を掴んだまま、キョロキョロあたりを見回して
落ち着きがありませんでした。
妹は 兄があまりにも良いお兄ちゃんに いきなり変わりすぎて
どうすればいいか 戸惑っている感じでした。
お母さんは髪を後ろで縛ってましたが、急いで家を出たのか
白髪の交じったほつれ髪が 耳のあたりに沢山ありました。
このお母さんに 眩しいピンク色のカーデガンが ちょっと不釣り合いにも見えました。
でも 私には とっても素晴らしい最高の贈り物だと思いました。


この家族を見て見ぬふりをして 寿司を食べ終え席を立つとき、
この家族がいつまでも幸せでありますようにと 

私は心から願いました。


私の母は 私が学生の最後の年 就職する直前に亡くなりました。
実は 私も就職したら 最初の給料で 
母にカーデガンをプレゼントしようと思ってました。
それも ピンクのカーデガンを。
私が小さかった頃 母に連れられて 

松江城がある城山公園の桜を見に行ったことがあります。
その時に私は母と手をつなぎ 階段を登りながら ふと 母を見上げると
母はピンク色の満開の桜の中で 桜の木からこぼれ落ちる木漏れ日のなかで
優しく 私を見つめていました。
私にとって 母は ずーっと その時のままです。
母が病気が治ったら ピンクのカーデガンを着た母と一緒に歩きたかったんです。



母をたたえるコンサート さだまさし 無縁坂

父と     ~人生が二度あれば~

私が とても小さい頃に 兄が庭の柿の木に縛られて

大泣きしてる光景を見ました。
未だに鮮明に覚えています。


父は 平然とした顔で 兄を眺めていました。
私は 事情は分らないまま
感覚的ですが 
絶対 悪い事をしたらダメだって思いました。


兄が小学校3~4年生で 私は まだ小学校へ行く前の頃の話です。
その日は 濃い群青色した夜空一面に 無数の星が瞬いていました。
その星空を指さし 兄が一生懸命 父に星座の説明をしていました。
私は訳も分からず 二人の真ん中に立って 兄と父と星空を見上げていました。
兄は台所の引き戸に白いクレヨンで 小さな丸と線を書きながら
父に一生懸命 星座の説明をしていました。
引き戸に白いクレヨンで書く兄を 父は怒ることなく静かに聞いていました。
兄が満天の星空を指さすと私も指さす方向を見ました。
それから 兄は引き戸に星座を書いて父に説明する時に、
私は 父と兄の両方の顔を見上げました。
兄を見て 星を見て 父を見て 星を見て...
短い時間だったのかもしれませんが 私には とても長く感じられて
今でも 当時のことを鮮明に覚えています。



私が大学4年生の時 母を亡くしました。

それから 父はずーっと 一人きりで生活してたと思ってました。


実際は違っていました。


島根の山奥の田舎の貧乏な家庭で育った三姉妹を
どのような事情かは分りませんが 面倒を見ていたようです。
長女の障がいを持った子供の面倒を見たり
次女、三女が 松江の高校の入学した時に 無償で下宿を提供してたようです。


実家の近くにスーパーがあります。
経緯は分りませんが 父は そこで働いていた長女のお子さんの面倒をみてました。
長女は中学卒業後 家庭の事情で すぐ スーパーで働くようになり
若くして結婚し 子供を産みましたが
その子に障がいがあり すぐ 離婚
田舎に就職先がないので 松江のアパートで暮らしてました。
子供を施設で預かってもらえない時間帯のみ
父が その障がいを持った子供の面倒をみていたようです。


しばらくして 次女が松江の看護学校に進学するようになりました。
実家は 私や兄が使ってた空き部屋があるので 
そこを使っていいよと言ったようです。
次女は 最初の内は ちょっとヤンチャだったようです。
何とか卒業し 大阪に就職しました。


三女は大人しくて 高校を卒業すると 大阪で就職しました。


それと同時くらいに 次女が大阪からUターンしました。
田舎には就職先がないので 松江で 実家の空き部屋を使ったり
食事を食べに来たりしてました。


その次女が 無事 結婚をする事になりました。
父に結婚式に参加して欲しいと言ってたようですが
父は固辞しました。
三姉妹の親戚から あの 知らない人間は誰だって言われたりすると
迷惑がかかるので 固辞したようです。


でも 次女がウエディングドレスを着て父と一緒に写真を撮りたいと言うので
父は 正装して式場まで行き 次女と二人きりの写真を撮りました。
父は その写真を とても大切にしてました。


次女の方からは いつも感謝の言葉を言われます。


とんでもないです。


父が母を亡くして 趣味の新聞の切り抜きをしてる以外は
ひとりで 何もない日々を送ってました。
経緯は分りませんが
3姉妹が 多感な青春時代を 人に後ろ指を指されることなく
精一杯生きてる姿を見ることが

そして貧しいからと言ってグレることもなく
きちんと一人前の人間になっていくことを見届けられたこと
これは 間違いなく 父の生き甲斐 そのものだったと思います。


父が生き甲斐をもって人生を全うしたのは
みなさん 三姉妹のおかげなんです。


父が死んで 27年になります。
父の棺の前で 両手で二人の子供を抱きしめ大粒の涙を流してた次女の事を
今でも鮮明に覚えてます。


喪中につき 年賀ハガキを出さない旨のハガキが届きました。
次女の方からです。

今でも 〇〇ちゃんが 墓掃除を定期的にしてくれてます。


私は 若い頃 オヤジの背中は意外と狭いんだよね 
なんて 恥ずかしい事を言ってました。
私は馬鹿でした。
オヤジの背中の片隅で 遊び回ってるだけだったのかもしれません。
恥ずかしいです。


次女の方に 


  申し訳なくて ありがたくて
   ありがたくて ありがたくて...
    心から ありがとうございます。


これが私の父です。
   

人生が二度あれば  井上陽水