里山で遊ぶ

ゆるい午後 遠回りする 帰り道
のどかな午後の時間を満喫できたらと思う。

造花

母の実家はド田舎にあり 私が小さい頃 
よく母に連れられて 船に乗って行きました。
実家は 島にはありませんが、
田舎のため 駅やバス停からは 長い距離を歩かねばならず
また 実家が船の桟橋から近いこともあり、それと...
1番の理由は 私が船に乗りたい為に 
わざわざ 母は 船に乗って 私を連れて実家へ行きました。
船は50t程度の大きさで 客室には畳が敷いてありましたが、
私は 後部デッキのベンチに後ろ向きに座って 
船が進む時にできる波がラッパ状に広がって行く様をみるのが好きでした。


真冬で とても寒い日に 母に連れられて 実家へ行きました。
一面 ぼたん雪がふわふわと降り降りてくる 真っ白な白銀の世界の汽水湖を
船はゆったりと進んでいきます。
寒くて客室に入ると 室内は暖かいけど 重油の匂いがきつく 
長く客室にいることが出来ません。
直ぐに 後ろのデッキに一人で行き 寒い中 ラッパ状に広がる波を見ていました。


実家に着くと 母は すぐ 親戚の大人たちがいる部屋に行きました。
私と兄は 土間で 親戚の子たちと 
ペッタン(方言でメンコのこと)をして遊びました。
大人たちが集まってる部屋が 慌ただしくなりました。
その時です。
兄が 台所の脇の 二階へ昇る階段の途中から私を呼びました。
兄のところへ行くと 階段の板と板の隙間から
大人たちが集まってる部屋を 覗くことが出来ました。
そこには、
布団に横たわったおじいちゃんの口のあたりを
白い布で 親戚の人や母が かわるがわる 拭いているのが見えました。
当時は 何も分からなかったのですが 死に水を取ってたと思います。
子供心に 見てはいけない事をしてるような 見てみたいような...
その不思議な光景を見てるときに 
台所から酢とぬか漬けのきつい匂いがしてました。
台所では 近所の人が ちらし寿司とぬか漬けと酒の準備をしてました。


私が幼稚園の頃だったと思います。
当時 母の田舎では 土葬でした。
葬式を終えて 一列に並んだ無言の人の群れが 墓場へ行きます。
左手で母の手を握り 右手には造花を持って 無言のまま人の群れについていきました。
連日のぼたん雪で 周りは白銀の世界です。
造花の上にも ふわふわと ぼたん雪が止まっては溶けていきました。


これが 始めて 人の死と直面した場面です...


実は この後 ちらし寿司とぬか漬けを食べられなくなりました。
私のどこかで 匂いと死が直結してたかもしれません。
死に対する恐怖が あったのかもしれません。
年をとるにつれて ぬか漬けは食べられるようになりましたが、
でも ちらし寿司は 今でも食べることが出来ません。


私が二十歳の頃は 50歳まで生きられれば 死んでもいいや と思ってました。
30年間で 好きなことやって それで 人生を終わりにしても悔いは無いなんて...


だけど、
今は その50歳を過ぎて 更に 60歳も過ぎて
体中の あちこちのネジが緩んできて
それを ダマシダマシ 毎日を生きてます。


今 思うことは 
今をしっかり生きよう! 
それだけです。


春の雨はやさしいはずなのに   小椋佳


むなしさが 夕暮れと雨をつれてきて
寂しさが 夕空と街を闇にぬり
何だか涙も出やしない 出やしない
春の雨は やさしいはずなのに 
全てが ぼやけてくる
どってこと ないんかな 
どってこと ないんかな


むなしさが 想い出も友も連れ去って
寂しさが 言葉も声も吸い去って
何だか涙も出やしない 出やしない
春の雨は やさしいはずなのに
全てが ぼやけてくる
どってこと ないんかな 
どってこと ないんかな


春の雨は やさしいはずなのに
全てが ぼやけてくる
どってこと ないんかな 
どってこと ないんかな

大判焼の皿

私は 中学の時 部活はサッカーでした。
今は人気の部活のようですが 当時は 人気の部活は野球部かバレー部で
野球部やバレー部の男子は3拍子揃ってる奴が多くいました。
それに比べ サッカーは 人気がないというか 男臭い奴ばかりでした。
それと 何故か マドンナと呼ばれてた女の子たちは 軟式テニス部にいました。


2年生になると先輩が退部し 僕ら2年生と新入生の1年生で
新人戦や交流試合で 時期が来ると 午後に 授業に出ないで 
別の中学校へ自転車で遠征しました。
サッカーは接触する場面が多く 足を踏まれたり 
足が引っかかって転倒したりと カチンとくる場面が多くあります。
私の中学校のサッカー部のご神体は五寸釘でした。
前半に足が引っかかって転倒した者に 後半が始まる前に五寸釘を渡して
『あいつを刺してこい!』
が合い言葉でした。
実際に刺した者はいませんが、先輩で刺した人がいると噂で聞いたことが....


試合が終わり学校へ戻る途中 大判焼を食べて お店でたむろします。
そこのお店は大判焼をアルミの皿に大判焼きをのせてました。
体育会系の部室にあったボコボコの大きな薄い金色のヤカンと同じ材質です。
その皿を学生帽の中に入れてかぶって そこを叩くとカキーンと音がします。
それが面白くて みんなで遊んでました。
学校へ戻ると『あ~、やっちまった!』と言う奴を見ると
学生帽の上が 真っ平らになってます。
大判焼きの皿をいれたまま ウッカリ 学校へ戻ってました。


これがキッカケで サッカー部のみんなが 大判焼きの皿を失敬して
帽子の中に入れるようになりました。
今思うと 何が楽しいのか分かりませんが その真っ平らになった帽子を
叩くと カキーンと音がして それが楽しくて たたき合ってたと思います。
これは 直ぐに 先生に見つかってしまいました。
サッカー部の2年生が 揃って 帽子の天辺が平らで 異様に見えてたと思われます。
北朝鮮の金正恩の後ろに立ってる軍服姿の老人の帽子が真っ平らで
あの光景をみる度に アルミ皿で天辺を真っ平らにした学生帽を思い出します。


職員室に呼ばれました。
サッカー部の顧問の先生の机の周りに 
サッカー部の2年生 全員が正座をさせられました。
当時は コンドロイチンが まだ 沢山あったので大丈夫でしたが...


かなり 怒られた記憶があります。
その時に 一人の女子が別な先生の所に行く為に
僕らの正座してる近くを通り過ぎました。
ちょっとすると その女子が 4、5人くらいの一般ピープルの女子どもを
引き連れて その先生の所へ行きました。
何人かは 明らかに 僕らが正座させられてるのを見る為に付いて来たと思われます。
多分 明日は この女子らが学年中の噂にするんだろうなぁ~と
全員の顔をチェックするような眼差しでした。


それから ちょっと過ぎたあたりで マドンナが一人で先生のところへ。
マドンナはチラッとこちらをみると こちらを見ないようにして
先生に何かを渡すと 小走りで走って行きました。


一般ピープルの女子どもとマドンナの 我々に対する この態度の差!
多分 一般ピープルの女子どもとマドンナの差は
見た目だけじゃなく この頃からも 人間としての大きな差があるんじゃないかな。


こってり怒られ 大判焼き屋への謝罪と出入り禁止がありました。
が、1ヶ月後あたりから また 大判焼き屋へ行くようになりました。


帽子の天辺を平らにする遊びは やめましたが...
アルミの皿の裏側にイニシャルを彫ってる奴がいました。
そのアルミの皿は お店で使われてました。
みんなで注文した後 一斉に皿をひっくり返し
そのT・Wのイニシャルの皿を出した奴は 
みんなでジャンケンして負けた奴に もう1個 大判焼きを買ってもらえました。


この時の感性が いつの頃からかは分かりませんが 無くなりました...
今 呼び戻せることができるなら 呼び戻したいです。


今日までそして明日から  吉田拓郎


私は 今日まで 生きてみました
時には 誰かの力を借りて
時には 誰かにしがみついて
私は 今日まで 生きてみました
そして今 私は 思っています
明日からも
こうして生きていくだろうと


私は 今日まで 生きてみました
時には 誰かを あざ笑って
時には 誰かに おびやかされて
私は 今日まで 生きてみました
そして今 私は 思っています
明日からも
こうして生きていくだろうと


私は 今日まで 生きてみました
時には 誰かに 裏切られて
時には 誰かと 手を取り合って
私は 今日まで 生きてみました
そして今 私は 思っています
明日からも
こうして生きていくだろうと


私には 私の生き方がある
それは おそらく 自分というものを
知るところから始まるものでしょう
けれど それにしたって
どこで どう変わってしまうか
そうです 分からないまま生きていく
明日からの そんな私です


私は 今日まで 生きてみました
私は 今日まで 生きてみました
私は 今日まで 生きてみました


そして今 私は思っています
明日からも
こうして生きていくだろうと