里山で遊ぶ

ゆるい午後 遠回りする 帰り道
のどかな午後の時間を満喫できたらと思う。

傘がない

学生時代は 雨が降ると麻雀をするかギターを弾いて
雨が上がるのを 部屋でじっと待っていました。
1年の時 早々に 自分の傘は何処かに置き忘れてしまいました。
時折 実家から傘を持ってくる住人がいましたが、
ちょっとすると その傘も無くなってしまいました。
ただ 傘がなくても 無いなりの行動をしてたので 特に不便は感じませんでした。
ただ どうしても大雨の中を外出しなければならない時は
近所の床屋さんに行って傘を借りていました。
正確に言えば、床屋でお客さんが忘れた傘が2,3本置いてあって 
それを床屋のおばちゃんが貸してくれていました。
傘を借りられるのは年齢順だったため、
1年生の時は傘を借りることはほとんど出来なかったと思います。
 

私が1年生の時の 下宿先に見取り図です。 

下宿先の建物は古い木造の一戸建てで 6畳の部屋が2つ、4畳半の部屋が2つあり
玄関の脇に共同の炊事場(水道、プロパン)と共同のトイレがありました。
ここに4人が住んでいて この古い木造建物が 合計3棟ありました。
庭の右奥の方にコンクリートブロックで造った共同の風呂場があり、
その風呂場に脱水機が壊れた洗濯機が置いてありました。
各部屋のカギはついていましたが 壊れていました。


私が入ったのは 生活道路近くの棟で 奥側の4畳半の部屋です。
生活道路側には 静岡からきた1年生が私と同時期に入りました。
6畳の部屋には 岡山県出身の7年生で その方は 主(ぬし)と呼ばれてました。
もう一つの6畳には 富山県出身の3年生で みんなに人畜無害と呼ばれていました。


雨のレベルによって 色々な対策をしていました。
レベル3くらいまでの弱い雨は 雨の中をそのまま行きました。
濡れた服は 気合いと体温と炬燵で乾かしていました。
レベル4~5くらいは 新聞紙を広げ 雨の中を猛ダッシュです。
レベルが6以上になると 床屋のおばちゃんに傘を借りていました。
ただ みんなが傘を借りて 傘がないとき 奥の手を使いました。
少々恥ずかしいのですが 段ボールを傘代わりに被って雨の中を行きました。
トイレの脇の物置場に 傘代わりの段ボールが置いてありました。
私の棟には 何故か 二人用の大きな段ボールも置いてありました。


大雨の時 その二人用の段ボールを主(ぬし)と人畜無害が被って
我が棟から スーパーに向けて出陣しました。
スーパーまでは 生活道路30mほど、国道を150mほど歩かなくてはなりません。
往復で360mほどになります。


その時の光景が 強烈すぎて 今でも忘れられません。
文字だけでは説明できないので イラストを描いてみました。 
段ボールの片方は ガムテープを使って 体積を稼ぎます。
また、進行方向は前方が見えるように カッターで穴をくりぬきます。

前に主(ぬし)、後ろが人畜無害で 雨の中を段ボールを被った二人が
下駄を履いて 出陣しました。
私と静岡は その光景を静岡の部屋から眺めていました。


始めは 歩調が合わないというか バラバラで 二人の足は上がるのですが
あまり前に進んでいきません。
先輩達が ふざけているようにしか見えませんでした。
このままでは スーパーに行き着くまでに バテてしまいそうだと思いました。


でも しばらく見ていると 徐々に歩調が合い リズミカルな足の運びになりました。
段ボールの中で 主と人畜無害が二人揃って
『1,2 1,2』とかけ声を出してると思うと 可笑しくて ずーっと見てました。
この格好でスーパーに行っても注意されることはありませんでした。


今の時代 こんなことしてたら SNSに上げられ 問題になってるでしょうね。


我が良き友よ

私が学生時代に始めて住んだ下宿先は 典型的な男だけの縦社会でした。
というか 下宿先に住んでたのは 12名の男だけでした。
下宿先の建物は古い木造の一戸建てで 6畳の部屋が2つ、4畳半の部屋が2つあり
玄関の脇に共同の炊事場(水道、プロパン)と共同のトイレがありました。
ここに4人が住んでいて この古い木造建物が 合計3棟ありました。
庭の奥の方にコンクリートブロックで造った共同の風呂場があり、
その風呂場に脱水機が壊れた洗濯機が置いてありました。
各部屋のカギはついていましたが 壊れていました。


ここの4畳半の部屋に 私と もう一人の1年生が 入りました。


下宿先で最初に言われたのが、『小麦粉と醤油は絶対切らすな!』でした。
仕送りのお金が無くなってくると みんなで餓死しないように 
小麦粉を親指サイズにこねて すいとんを作って飢えを凌いでいました。
もう時効なので書きますが 近所の畑のネギを失敬させて頂き
ぶつ切りにしたり、ちぎったりして すいとんの鍋に放り込みました。
味付けは醤油のみですが 時折 この下宿の主(ぬし)の実家から送られてくる
切り干し大根や干し椎茸を入れることがありました。
この微妙な味が 今でも 忘れられません。
美味しいわけではありませんが また 食べてみたい 懐かしい味です。


本当にお金がないかと言えば、そうでもないんです。
お金があるときは まず最初にお酒を買ってしまうんです。
ハイニッカの大瓶を購入しますが、お金がある時はブラックニッカを 
懐事情が許せば だるま(サントリーオールド)を購入し 
凡そ 1週間で1瓶を飲み干すペースで飲んでいました。
下宿先には 私ともう一人 1年生がいましたが、
ハイニッカはアルコール臭くて すごく不味いので 
ブラックニッカを購入してました。
ブラックニッカを飲んだ次の日に もう一度飲もうとすると 
かなりの確率で ブラックニッカの瓶の中身がハイニッカにすり替えられていました。
中身のすり替えは暗黙の了解で人を疑ってはいけないルールがありました。
すり替えられたほうが注意不足という事です。
この事が二度続けて繰り返されたので、
これは どうもこの下宿の主(ぬし)の仕業ではないかと思えました。
ある日、主がブラックニッカの瓶を持ち帰った時に、もう一人の1年生と一緒になって
ブラックニッカの中身をすり替えようという話になりました。
主が外出した時に ブラックニッカの中身をビクビクしながら二人ですり替えました。
部屋に戻り 二人でブラックニッカを飲んだところ 
既に中身は誰かに ハイニッカにすり替えられていました。
 

 


この他にもう一つ 普段は靴ではなく
下駄かビーチサンダルを履くことというルールがありました。
一年中 炬燵に潜って寝ることも理由の一つですが、
ほぼ1年中 麻雀をやるために炬燵を出しているので 
靴下をはくと炬燵の中が臭くなるので素足で臭くならないようにするためです。
下駄は人のを履いても良いというルールでした。
下駄が時折 割れた時は 新しい下駄を誰かが買うまでは 
最後に外出するものは下駄がなく 真冬でもビーチサンダルで外出する事になります。
見た目が もろ貧乏人で かなり恥ずかしので外出は控えることになるんです。
下駄に関しては上下関係はなかったので早めに外出をしていました。
ひどい下宿だと思われる人がいると思いますが、
炬燵の上に財布や現金を置いたままにしていても無くなったことはありません。
実家から送られてきた食料品なども無くなったことは一度もありません。
何はしてもよくて何がしてはいけないか この下宿で徹底的に教わった気がします。