里山で遊ぶ

ゆるい午後 遠回りする 帰り道
のどかな午後の時間を満喫できたらと思う。

漂流 ~祭りのあと~

太平洋を37日間 エンジンが壊れた小さな漁船に 独りぼっちで漂流。
食料も水もなく 勿論 明日生きてるかどうか分からない極限状態。
360°パノラマで見えるのは地平線だけ。
この極限状態を生き抜いた長崎県の漁師 武智三繁船長の著書
『あきらめたから生きられた』を読みたかったのですが廃盤(?)みたいです。
残念!


「人間って なかなか死なないもんだ」という言葉の意味が知りたくて、
ネットで調べていたら インタビュー記事と漂流記録がありました。
少しだけですが理解できました。
文章が長くなりますが転記します。 



武智三繁船長漂流記 (インタビュー記事です)


記憶の中の「彼」は、憔悴しきった表情を浮かべている。
焼けた肌に伸び放題のヒゲが、長い漂流生活を物語る。
「人間って なかなか死なないもんだ」とつぶやき、世間を拍子抜けさせた彼。
一躍時の人となり、その言葉は2001年の「日本新語・流行語大賞語録賞」に選ばれた。
しかし、奇跡の生還を果たした彼は昨年、窃盗容疑で逮捕され、有罪判決を受ける。
「時の人」から「犯罪者」へ。
そもそも彼の人生そのものが「漂流」の連続だった。
両親の死、アルコール中毒、そして、82日間の拘置生活-。
「逮捕」のニュースに接した後、なぜか彼に会ってみたくなった。
長崎県の西端、西海市崎戸町。
旧産炭地と漁村の風景が広がるこの町の市営住宅に、彼は暮らしている。
元「繁栄丸」船長、武智三繁さん(56)。
角力灘が見渡せる崎戸町内のホテルの喫茶室で
「今更、取材したいって言われても不思議に思われるでしょうけど・・・」
と切り出すと、武智さんは2、3度うなずいて、これまでの人生の軌跡を語り始めた。
崎戸町に生まれた武智さんは6人きょうだいの長男。
父は漁師で、母も勤めに出ていた。
父の手伝いで幼い頃から漁に出ていた武智さんは将来は漁師になるものと思っていた。
だが「漁師は事故が心配」と言う母の勧めで、上京し、サラリーマン生活を始めた。
こらえ性のなさから、仕事は長続きせず、職を転々。
「いつも、『いつ辞めようか』とばかり考えていた」と笑う。
東京で働き始めてしばらく経った頃、父が急死。
自宅が火事で焼けるなど、相次いで不幸に見舞われる。
さらに、父が残した漁船建造費700万円の借金が、
長男である自分の肩にのしかかった。
コンピューター関連会社の給料の中から毎月5万円ずつ仕送りし、完済。
安堵したのも束の間、1997年、母が交通事故で亡くなった。
失意の中、帰郷し、地元でたった一人の生活が始まった。
母の死から4年後。武智さんに人生最大の「事件」が起きた。
2001年7月、操業中にエンジン故障で遭難し、
太平洋上を約2000キロ、38日間漂流した。
食料が底を付き、雨水や小便を舐めて飢え、渇きをしのぐ極限の生活。
台風で海は荒れ狂い、漁船は木の葉のように波間を漂った。
「死」と隣り合わせの中で、「どうにもならない。なるようになる」と
「あきらめた」ことが生存につながった。
「『あきらめる』というのは仏教用語で、
物事をあきらかに見る、とか見極めるという意味。
著書のタイトルに『あきらめたから生きられた』と付けたのも別に、
否定的なニュアンスじゃないんですよ」と武智さんは教えてくれた。
偶然通り掛かったはえ縄漁船に発見され、救助される場面は、今聞いても感動的だが、
「極限状態からの生還」というイメージとは少し違うようだ。
「漁船に発見されて、船員からもらったペットボトルの水をがぶ飲みした。
おにぎりを平らげたら、目がシャキっとして急に体に力がみなぎってきた。
これは言っちゃいかんよなと思いながらも、
『たばこをください』とジェスチャーしたら、マルボロを1箱くれた。
立て続けに15本ぐらい吸った。
後は船内で歩きたばこしながら、救助を待ってたんです。
海保の人が来た時も『大丈夫か!』と言われたんで荷物を両手に抱えて立ち上がったら、
向こうが目を丸くしちゃって・・。これじゃいかんと思って、
わざとヨロヨロしたふりとかして、逆に気をつかいましたねえ」。
武智さんは気まずそうにそう語った。
奇跡の生還後、全国各地から講演依頼が舞い込み、多忙を極める。
漁師時代に比べ収入も増え、酒と女に溺れた。
しかし、「夢のような時間」はあっけなく終わる。
漂流から3年後。
佐世保市内の駐車場で、段ボールをかぶって寝ているところを警察に保護された。
自分の車で行ったはずなのに記憶がない。
自分が誰かも分からない。
警察官に「あんた、有名な漂流船長たい」と言われて、そうだと知った。
アルコール性神経衰弱による記憶喪失。
精神病院に緊急入院した。
酒と講演によるストレスが原因だった。
退院後、恋人とも別れ、講演依頼はなくなった。
貯金も食いつぶし、生活保護の生活へ。
そして、昨年7月、他人が海中に仕掛けた刺し網を引き上げて盗んだとして、
窃盗容疑で逮捕。執行猶予付きの有罪判決を受けた。
「ただ『この網が欲しいなー』と思ったら、盗んでしまっていた。
言い訳のしようもない。口では言い表せないほど、お詫びの気持ちでいっぱい。」
と武智さんは神妙な面持ちで言う。
取材を始めて3時間が過ぎようとしていた。
何杯目かのコーヒーに口を付けながら、武智さんはふとこんなことを漏らした。
「(漂流の際に)助けてくれた方々には申し訳ないんだけど、
本当はあの時に俺は死ぬべきだったんじゃないか、って思うことが
時々あるんですよね・・。でも死ななかった」。
窓の向こうには紺碧の海が広がり、漁船が点々と浮かぶ。
武智さんは「救助された日は母の命日だったんです。
そして、精神病院を退院できたのも、母の命日。
母親に『だらしないぞ。ちゃんと生きろ』って言われてるのかな」とつぶやいた。
武智さんは今、知人の仕事の手伝いをして日々過ごす。
気心の知れた友人も少なく、もともと人間付き合いが苦手な性分。
定職はなかなか見つからない。もう漁に出るつもりもない。
「漁に出ても食える分はないから。でも、海は今でも好きですよ。
漂流のことを思い出したりすることはないねえ。」
ただ、救助の時に別れたままの愛船「繁栄丸」のことはふとした時、脳裏によみがえる。
亡き父の船名を引き継いだ「繁栄丸」。
今も大海原をさまよっているのか-。
彼は弱い人間だと思う。
恐らく、これまでの人生で彼が主体的に何かを選択したり、
強い意思も持って何事かに臨んだことはなかった。
「流されるままの人生」だったのかもしれない。
哲学的な一面をのぞかせたかと思えば、短絡的で愚かな行動に出たりもする。
しかし、私はその「弱さ」を責めたり、諭したりする気にはなぜかなれない。
同情とは違う。自分の中にある「弱さ」や「やるせなさ」を彼の人生に重ねてしまうのか。最後まで「彼に会いたかった理由」は分からなかった。ただ、会えてよかった。
別れ際、「今度、自伝でも書こうかと思ってるんですよ。
『転落』ってタイトルはどうですかね?」と武智さんは冗談めかして言った。
「何かをやりたい、残したいって思ったのって初めてじゃないんですか?」と聞いてみた。彼は「・・・そうかもしれませんね」と静かにうなずいた。
「じゃあ、ここで」。自宅前で別れを交わした。
バックミラーには、くわえタバコで、
こちらに向かって何度もお辞儀をする武智さんの姿が映っていた。



武智三繁船長の漂流経過の記録です。


7月20日
午前4時に長崎県崎戸町の崎戸港を出航した。
日帰り予定だったが、正午頃に船のエンジンが停止。
その後、エンジンは好調・不調を繰り返した。
7月24日
携帯電話で崎戸町内の修理業者と連絡をとりつつエンジンを修理しようとしたが、難航。
さらに携帯が圏外となり、連絡手段が途絶えた。
7月25日
停止していたエンジンが再起動するが、現在位置を把握できないまま、
エンジンが完全に停止。
この日、修理業者が崎戸町の漁協支所に繁栄丸の故障を連絡。
翌日には佐世保海上保安部に連絡が入り、海と空からの捜索が開始された。
7月26日 - 8月4日頃
船に積み込んでいた食料が底をついた。
初日に釣り上げていた小魚を餌として魚を釣り上げ、刺身などにして食べた。
食べきれない魚は干物にして保存した。
周囲の魚が餌を警戒し始めたらしく、餌釣りがうまくいかなくなったために
ルアー釣りを試したが、数個あったルアーをすべて魚に奪われ、
財布に付いているキーリングでルアーを自作して釣り始めた。
当初は釣りに楽しみを感じる余裕があったものの、大物がかかると、
それを引き上げることが体力の消耗に繋がった。
(時期不明)
大型船が接近。
4本ある発煙筒の内の3本を使って救援を求めたが、大型船はそれに気づかず通過した。
残る1本の発煙筒は最後の最後までと思い残しておいたものの、
結局は使うことがなかった。
8月4日頃
手製ルアーを魚に奪われ、魚を釣る手段が完全になくなった。
新鮮な魚が得られなくなったため、食料はそれ以前に釣り上げた魚の干物のみとなった。
8月9日前後
水が完全に底を付いた。
出航当時には20リットル入りのポリ容器2個、ペットボトル数本、
栄養ドリンク数本を積んでいたが、この頃に飲料水が底をついた。
前述のように食料は干物のみとなっていたが、
干物を口にしても、水なしではとても飲み込めなかった。
(時期不明)
海水をやかんで沸騰させて蒸留水を作ることを試みた。
やかん程度では、蒸留水を別の容器に移し替えて大量に貯めるのは無理で、
やかんの蓋に付着した水滴を嘗め、かろうじて渇きを癒した。
雨の日もあったが、雨水を容器に貯めようにも、
容器自体が海水の塩にまみれていたので真水を貯めることができなかった。
8月19日 - 23日頃
台風11号に遭遇。
優に10メートルを超える大波に何度も襲われ、船内が水浸しになったが、
前もって船体各部のロープを太いものに交換して補強しておくなどの策が功を奏し、
台風を乗り切った。
8月23日以降
体力が目に見えて消耗し、立ったり歩いたりすることすら困難となり、
海に転落したこともあった。
(時期不明)
コンロのガスを使いきり、真水を作ることが完全に不可能となった。
最後の手段として自らの尿に口をつけるが、
とても飲み込むことはできず、唇を濡らすのが精一杯だった。
飲むことが困難だったのは、脱水症状の影響で尿が濃くなった上に
異臭を伴っていたためと推測されている。
(時期不明)
極限状態の中の最後の手段として、帆柱など目立つ部分に
色とりどりの布類を結び付けて風にたなびかせ、ひたすら救助を待った。
この時点では発煙筒が1本残っていたが、ほかの船に合図する最後の手段として、
燃料を船に撒いて船自体を燃やす手段も考えていたという。
8月26日
千葉県犬吠埼の東方約800キロメートル地点の太平洋上で、
漁場に向かう徳島県のマグロはえ縄漁船・末広丸が繁栄丸を発見し、
救助を求めていると気づいた。
船の大きさが違うために船を横付けできず、
飲み物、おにぎり、たばこなどを差し入れた。
その後、海上保安庁から連絡を受けた海上自衛隊の救難飛行艇が到着。
出航から37日目にして生還を果たした。
この報道当時は極限状態からの生還というイメージが強調されたものの、
後に武智自身が語ったところによれば、実際には水と食料を補給された時点で、
船上を歩き回る余裕ができるほど体力が回復しており、
救助に駆けつけた側がむしろ驚いていたという。
9月
帰郷。マスコミの取材攻めに会い、インタビューで漏らした言葉
「人間って、なかなか死なないもんだなぁ」が
2001年の新語・流行語大賞の語録賞を受賞した。
12月
漂流生活を綴った著書『あきらめたから、生きられた』が出版された。
※漂流経過はウィキペディア(Wikipedia)に記載されてたものです。


祭りは いつまでも続きません。
いつか、必ず 終わりが来ます。
その時に 踏ん張れる 強い気持ちを持ちたいですね...

×

非ログインユーザーとして返信する