里山で遊ぶ

ゆるい午後 遠回りする 帰り道
のどかな午後の時間を満喫できたらと思う。

磯浜古墳群  歴史に学ぶ

海岸沿い 車を走らせてると 国指定史跡 磯浜古墳群の立て看板が目についた。
古ふ~んですか…? 
コフンといえば龍角散なんてネ、ちょっと立ち寄ってみますか。
古墳なんて全く知識はありません。
何処にどのような形で現存してるかも全く分からないまま
取り合えず 軽~い気持ちで 風の向くまま 行ってきました。

 

この写真は 前方後円墳の後ろ側(海側)にある海防陣屋の跡地から
太平洋を一望したものです。
天気がよければ 遠く鹿島灘まで展望することが出来る見晴らしのいい台地です。


古墳の知識は全くないのですが、途中の車塚古墳で整備しているボランティアの方と
色々と話をすることが出来、古墳の魅力に少しだけ憑りつかれました。
 

最初にこの航空写真の資料を見てたらよかったのですが、ノー知識で行ったので
実際に見たのは日下ケ塚古墳と車塚古墳の2ヶ所だけです。

 

人が一人 通れるかどうかの細い裏道を登っていきます。
やっと広場に出て 日下ケ塚の看板がありました。 
全長が100m強の前方後円墳です。

前方後円墳の鍵型の後ろ側の両サイドが細く削られてます。
もう少し 詳しく見ると マッチの軸のようになってます。 

これについては ボランティアの方に聞いたところによると
江戸時代に水戸藩の藩主が 海防陣屋を設置するときに切削したとの事です。


ペリーが静岡県の浦賀に寄港した話は 教科書に書いてありましたが、
実際のところ ペリー以外の外国船が 日本のあちこちに寄港してるようです。
ここ大洗にも外国船が寄港し 蒸気船用の薪や水を要求したそうです。
その為 海防陣屋を建て見張っていたそうで 外国船が来ると
水戸藩まで 馬を走らせ 知らせたそうです。
私は 外国船の寄港は 浦賀だけだと思ってましたが 当時の海図や
羅針盤の精度にもよるでしょうが あっちこっちで 外国船が出没したんでしょう。
このことが教科書に書いてあったかどうか分かりませんが 
当時の日本人は 外国人を見て どんなリアクションをとったのでしょう。
この辺を 教科書に載せてもらえば もう少し 歴史に興味を持ったのになぁ~


この海防陣屋については ボランティアの方に教わりました。

     

前方後円墳の前方側からの写真です。

 

次に車塚古墳に行きました。 

この古墳は 全国屈指の大型円墳で100mほどの大きさです。 

右側に小さく写ってる方がボランティアの方で 普段は高校の先生をしてるそうです。
足元を見ると登山靴を履かれていたので 何となく親近感がありました。 

円塚の天辺から眺めです。
大洗町が一望できます。
以前見たTBSのドラマ『仁』のラストの岡の上から町を見下ろしてるシーン(多分CG?)
のような風景で くっきりと大洗町が一望でき 感動しました。
晴れた日は 遠く 筑波山が見えるとの事。
晴れた日の夕方 夕陽の写真を撮りに再訪したいと思いました。

 

ここで 古墳群の由来をボランティアの方にお聞きしました。


眼前には鹿島灘が一望でき 背後には那珂川、涸沼川水系の河口部がひかえ、
坂東東限の水上交通を掌握した古墳の被葬者像が想像できます
これで財を成したと思われます。
が、何故か4世紀の100年間だけで 忽然と姿を消しています。
何故 姿を消したのかは分かっていません。


ここからが私の想像の世界です。
パソコンが普及しだしたころ、経済学者が『流通革命が起きる!』と唱えてました。
実際に どうでしょうか。
コンビニ、ネット販売、電気店、どれをとっても 
彼らはモノを造るのではなく、モノを欲しい人へ届けることを仕事としてます。
今 アマゾンを始め これらの業種は 一世を風靡しています。


流通革命と言われてますが 4世紀 今から1700年前に
既に 山の幸と海の幸を水上交通の手段を使って
モノを欲しい人に届ける仕事をして 莫大な富を得て古墳に眠ってる人が居ます。
何が流通革命なんでしょう?
昔からある 古典的な手法にしかすぎないと思います…


歴史は繰り返すと言います。
今の モノを造らないでモノを欲しい人に届けるだけの仕事は
私の予想では きっと 100年後 跡形もなく消えていることでしょう。
あくまでも予想です…

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