里山で遊ぶ

ゆるい午後 遠回りする 帰り道
のどかな午後の時間を満喫できたらと思う。

山入城跡で遊ぶ  その1 要害山の宙船(そらふね)

 

『こんにちわ、筑紫哲也です。本日は要害山の宙船(そらふね)前から中継です…』
な~んて気持ちで 要害山の山入城跡に行ってきました。


私が会社へ出勤してた頃は 散髪へ行く目安が筑紫哲也の髪の長さでした。
今回 コロナの影響で暫く散髪をしなかったので 髪が伸びてしまい
筑紫哲也オーバーをしてしまい そろそろ小澤征爾 に近づいてきました。
コロナのお陰で マスクで無精ひげを隠せますが、
小ざっぱりした服装と髪の手入れをしないと
小澤征爾ばりの爆発頭にこ汚い服装では 不審者にみられそうです。
毎日 コギレイにするのは面倒くさいし どうしようかな…
海さんが いっその事 そのまま髪を伸ばして 後ろで縛ったらと言ってますが…
学生時代に 胸あたりまで髪を伸ばしたことがありますが
今 髪を伸ばして後ろで縛ったら きっと落武者になってしまうでしょう。


話がそれてしまいましたが 山入城跡の地図です。

 

山入城跡は要害山(186m)の山頂にあります。
この里山の前には 山田川に沿ってわずかな平地があり 
そこの田園ではこしひかり米が作られてます。
対岸の里山の南側 直線距離で5・5kmの位置に敵の久米城跡があります。


よく雲海の上に里山の城跡が浮かび 風光明媚な印象の所がありますが
現実は そんなに風情を気にして 山の上に作ったものではありません。
川の水、田園の水が熱により蒸発し 霧になりますが
両端の里山が壁になり 霧がたまり 雲海が出来やすい地形にすぎません。
里山山頂に城跡が多いのは 戦う上で 山頂の方が防御しやすいのと
高い位置のほうが有利であること、統治してる地域を一望できるなどの理由です。
食料、水などの補給を頻繁にする必要があり 当時 クロネコヤマトはなく、
自分での運搬作業などを考えると 出来れば 里山でも低い方が好まれました。


私が最初に山入城に着いた時に 最初に見た風景です。 

前回 来た時はデジカメで この馬出の全体像を収めることが出来ませんでしたが
今回は広角レンズを持ってきましたので 何とか全体を収めることができました。
素晴らしい馬出です。後ろにある城が全く見えないです。
この小高い丘(馬出)は高さが6~7mくらいあります。
横幅が15mくらいで奥行きが20~25mくらいです。
この上に下っ端の兵が陣取り 向かってくる兵に槍や弓、投石などで対戦します。
この馬出の第一印象が 地上から飛び立つ宙船(そらふね)に見えました。
前の広場が 静まり返った海原です。
馬出の上にずらりと立ち並び 長い槍を持っている兵を想像すると
それが オールを漕いでる水兵のような力強さを感じます。
TOKIOの宙船(そらふね)を口ずさみながら この馬出の上に立ちましたが
下っ端兵の息遣いが聞こえてきそうでした。
『宙船(そらふね)』って中島みゆきが作詞作曲してるんですね。
歌の出だしの一節です。  


    その船を漕いで行け おまえの手で漕いで行け
     おまえが消えて喜ぶものに おまえのオールをまかせるな


私が山城跡を散策しているのは 歴史が好きだからではありません。
ましてや 過去の戦いを楽しんでる訳でもありません。
山城跡を散策している時は 頭の中には いつも
さだまさしの『防人の歌』が繰り返し聞こえてきてます。
この防人の歌が戦争映画の主題歌だったことで 
間違った解釈で 戦争賛美と言われた事があったようです。
一部の人に 彼 独特の表現が理解がされなかったようです。


私は 吉田拓郎やさだまさしの歌をよく聞きますが、
私の個人的な感想としては 彼らは直接 反戦の言葉は使いませんが 
彼らの歌の底辺にある言葉は それが何であるか しっかり伝わってきます


自分を愛し 自分が好きで
オヤジを愛し オヤジが好きで
オフクロを愛し オフクロが好きで
友達を愛し 友達が好きで
生まれたところを愛し 生まれたところがが好きで
育ててくれた町がを愛し 育ててくれた町が好きで
故郷を愛し 故郷が好きで


広島で育った吉田拓郎、長崎で生まれ育ったさだまさし、
広島…、長崎…



山城跡を散策し その時に頭の中で 防人の歌が聞こえてる時に感じるのは


名前もわからない下っ端兵が
自分の本意ではなく 命を落としていく
当時の事情から 城主に対する忠誠心は さほど無かったと思うんですが…
じゃあ 何のために命を落とすのか?
いったい誰のために…
そんなに命を落とすって簡単なことなのか?


この答えはないかもしれませんが これが知りたくて
私が山城跡を散策する原点は ここにあります。



※ 次からは 城跡散策で 特別な単語が出てきます。
  なるべく 分かり易く解説しますので 
  特別な単語を見ただけでブログを読むのをやめたなんて思わないでくださいね。


今回 馬出という言葉がでましたが これは現代ではバリケードに相当します。
門から直接 攻め込まれないよう 門の外にバリケードを築いて
簡単に攻め込まれないようにしています。
山城の馬出は 門の前の小高い丘の上を平らに馴らして そこに兵を配置します。
ここで敵をせき止められれば良いのですが 突破されたら逆に相手側に使われます。
馬出は一長一短で 東日本では多く、西日本ではあまり多くありません。
当時 忠誠心があまりないので 敵が多い時は 
それを見た馬出の上にいる兵は 多分 トンズラしたんじゃないかと想像します。
回りを囲まれたら 即 死を意味しますから…
なので 馬出は 形式を重んじる東日本に多く、
あまり形式にとらわれない西日本は少なかったのだろうと想像します。
形式にこだわる、こだわらないって 関東と関西 今でもそんな気がします…

山入城跡への再訪がフツフツと…

2年前に訪問した山入城跡が 思いのほか低評価のブログを読んで
いやいやいや…  それはないでしょ!
私の中ではトップ3に入る素晴らしい城跡だった記憶があります。
以前 訪問した時のブログを読み返しましたが
私の表現したい内容の半分も記載してませんでした。
当時の城跡に関する知識のなさ、プアーな表現方法で面白みに欠けてますが。


  
これでは 折角の名城跡が寂しい限りです。


なので 急遽 ポイントとしては集中的に3か所の詳細な調査をして
再度 ブログにアップしようと思います。


その1 馬出しの構造と伏線の進入路
馬出しの構造、形状、進入路などで ここで相手が複数で侵入してくるのを
防ぎながら かつ 2郭が見えない壁を用いた構造にしている部分。
古い話ですが ボクシングの世界戦で 辰吉丈一郎と薬師寺保榮が
戦った時の事ですが、勝った薬師寺のコメント『目を集中して殴りました。』
本当の闘いはフェアプレーなんて糞くらえです。命が掛かってます。
相手の弱点をとことん攻めることです。
この馬出しの構造を見てると 本当の闘い用に作られた構造だと思います。


その2 土橋と竪堀
土橋が馬出しと2郭の間にあり1人しか通れない細さで 
土橋の両端は急こう配の長~い竪堀の構造。
私は あえて この竪堀を 奈落の底まで落ちる堀と呼びます。
相手が土橋を通ろうとすると 馬出しと2郭の両端から総攻撃し
奈落の底に突き落とす構造になってます。
これは 正に現代社会のビジネスで 頻繁に叫ばれてるボトルネックそのもの。
相手方を一人、しかも両端が谷の細い土橋の上にすることで
相手の側のボトルネックを作っています。
この時代に このボトルネックの手法を取り入れてるのは凄い事です。


その3 2郭の右側が広い路、左側に細い路
馬出しでは細い路だったので 心理的には 同じく細い路を行くと
思うが 実際は 広い路を進まなければなりません。
ここが 第3の罠です。
4~5人が 広い路に横一列になって待ち受けます。
しかも左上には 2郭に山入側の兵がいます。
L形の構造で 一人を待ち受けてますので ここを突破するのは難しい構造です。
このL型の構造は 1970年代の学生運動の全盛期にデモ隊が
デモを有利に展開する方式で採用されてましたが、
山入城では この時代に 同じ手法を取り入れてます。



最近 ブログを書くのが億劫になってきました。
多分、書こうとしてる内容が 乏しくなってきてるからかも…


今回は 山入城跡へ行く前からワクワクしてます。
ザーッと粗筋を書きましたが 山入城跡に再訪し
写真と詳しい内容を 楽しみながら書く事によって
マンネリから脱却しようかなと思います。