里山で遊ぶ

ゆるい午後 遠回りする 帰り道
のどかな午後の時間を満喫できたらと思う。

久昌寺旧跡にある謎の隧道  付録

久昌寺旧跡にある隧道には 一人で行きました。
私は 里山ハイキングなど 基本的には単独行動です。
海さんは 私が一人で出かけるときには
私が家の仕事(例えば庭の雑草取りなど)から逃げようと思ってるみたいです。
なので 本当に里山ハイキングへ行った証拠として
いつも私が一人で出かけるときには
里山へ行く途中にあるJA直売所で 
新鮮で安い野菜を買ってくるように命令します。
普段の行動に 何の問題もないと 自分では思ってますが
なかなか信用されてません。


久昌寺旧跡にある隧道からの帰り道にJA直売所で野菜を買いました。 

JA直売所は どこでも同じだと思いますが 
値札に生産者の名前が記載されているので 安心な気がします。 

野菜の金額が高騰してると TVのニュース報道を見ましたが
ホンマでっか?


消費税込みの金額ですが、
きゅうりは5本入り×2袋が240円(1本が消費税込みで24円)
なすが7本入り×1袋が100円(1本が消費税込みで15円くらい)
甘南蛮17本入り×1袋が80円(1本が消費税込みで5円くらい)


きゅうりは真っ直ぐなやつは もう少し値段が高かったと思いますが、
真っ直ぐだろうが 曲がっていようが 味は一緒だから気にしないです。


海さんは 野菜の値段が安いと喜び スーパー並みの普通だと私に文句を言います。
支払った野菜の金額は 私の自腹で 海さんは 一切 お金をださないのに
なんか変ですぅ~
朝取れの新鮮な野菜が食べられることに 感謝をして欲しいなぁ~と
いつも思ってます。


甘南蛮は 始めて聞いた名前で ピーマンとししとうの中間くらいの大きさで
気になったので 勢いで買ってみましたが 
どんな料理で出てくるか 楽しみです。

久昌寺旧跡にある謎の隧道  真実に迫る

この後、予期もしない展開となりました。

隧道(トンネル)を調査した後、新しく建てられた久昌寺へ行きました。 

坂道を登っていくと とても大きな寺がありました。 

帰りの車の中で グルグルと隧道(トンネル)を思い返していました。
あたかもジグソーパネルのパーツをはめ込むように
隧道(トンネル)の謎解明のストーリーが次々と 繋がっていきました。


青島警部の『事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きているんだ!』
という有名なセリフがありますが、その通りでした。
隧道(トンネル)を調査する前に 色々と事前検討してましたが
全てが 一目見て 吹っ飛んでしまいました。


最初に 気になったのが洞窟の壁に残っている切削痕です。
壁面は風化していましたが よく見ると
辛うじて幅数センチ程の切削痕がランダムな角度で付いています。
これは 多分 備中鍬のような物を使って人力で掘った跡だと推測できます。
機械を使ってトンネルを掘っているとすれば
切削痕の溝がV字型で角度は同一方向に近い形で残っている筈です。


また 何故 トンネルの形状が 人の目のような形で横に長いか疑問です。
その前に そもそも 誰がこのトンネルを掘ったんだろう。
これは石碑の横に設置されてた案内板から推測できそうです。 

天和三年(1683年)には 僧侶の学校である檀林が設けられ 
盛時には3000人もの僧が学んでいたと書いてあります。
この隧道(トンネル)を掘ったのは この僧達ではないかと推測できます。
僧達は沢山いたので 両側から切削することで工期を短縮したと思います。
両側から掘り 中央でぴったり合えばよかったのですが、
元々 トンネル掘りを専門としてないので ズレが生じたと思われます。
図には点線で表してます。
その左右のズレを補正する為に 横長に追加で切削したと思われます。
結果的に 久昌寺跡地の反対側のトンネルの入り口は
穴が真っ直ぐではなく 人の目のような形に見える形状になったと推測します。


では 何の目的で掘ったのか?
そもそも 僧達が勝手に隧道(トンネル)を掘り始めることなんてあるのか?
僧達に隧道(トンネル)を掘るよう命令・指示出来るのは
ただ一人 光圀が京都から久昌寺の院代を命じて寺務を総括させた日乗だけです。
では 何故 日乗は僧達に隧道(トンネル)を掘るよう指示をしたのか?


多分ですが 日乗の光圀に対する忖度だったのでないでしょうか?


久昌寺には光圀の生母の谷久子(靖定婦人)の分骨が埋葬されてます。
多分 光圀は西山荘から 何度か久昌寺に来てるはずです。
距離は 最短距離で約500mあります。
久昌寺の近くになると 老齢の光圀は体力的にヘロヘロだったのかもしれません。
日乗が その様をみて 僅かでも近道を!と考え
僧達に隧道(トンネル)を掘るよう命令したのではないでしょうか。
久昌寺を建てて頂いた光圀に対する感謝からの命令・指示だった気がします。


また 久昌寺跡から隧道(トンネル)までの区間の道だけ
6~7mと広いんです。
これも 想像ですが 光圀が久昌寺へ来るときに
この道の両側に 僧達がびっしりいて歓送迎をしたのではないかと思います。
でなければ 何故 この区間だけ 道が幅広なのか 分かりません。 


これが 私の久昌寺旧跡にある謎の隧道の答えです。
・・・と言うか 答えでした。


すっかり忘れていたのですが 最初に久昌寺跡地を訪問しようとした時に
地図を忘れて この近郊をウロウロし 場所が分からず撤退しました。
折角の遺跡が 案内板がないと分かりづらく行けない旨を
常陸太田市 教育委員会 文化課にメールをしました。
ついでに この久昌寺旧跡にある謎の隧道について
教えて欲しいと付け加えました。
返信は 多分 来ないだろうと思ってましたが
思いもよらない返信がきました。
その時の 返信メールをそっくりコピペします。


1)案内板について
里山様がおっしゃるとおり、太田西山高校方面から久昌寺旧跡へ向かう際、
山の寺の脇に案内板があると分かりやすいと思います。
ご指摘ありがとうございます。今後検討させていただきます。


2)久昌寺旧跡近くのトンネルについて
いつの時代に何の目的でつくられたか、詳細は分かっておりません。
しかし、久昌寺の僧の日乗が、元禄4年から16年まで書き綴った「日乗日記」(県指定文化財)の中に、このトンネルについての記述があります。
それによるとこのトンネルは「通玄洞」といい、
旧久昌寺から、その奥にあった摩訶衍庵と称する塔頭へ通じるために
使われていたようです。
少なくとも、元禄4年(1691)には存在していたことが確認できます。


おおおおおおおお~!
ほんまでっか!


私は光圀への忖度で隧道(トンネル)が造られたものと思ってましたが、
日乗に対して光圀は『私は隠居の身。僧の皆さんが使われる事を望みます。』
と 言ったと思いたいです。
その為に 摩訶衍庵と称する塔頭へ通じるために使ったと書いたのでは...


次に ヨッキれんさんの久昌寺旧跡にある謎の隧道のレポートの
最後の文面をそのまま転記します。


ちなみに、万が一だが、この隧道が光圀の時代に掘られたものである場合、
つまり元禄4年(1691)~13年(1700)に掘られたものであったとしたら、
非常に貴重な江戸時代生まれの隧道の中でも別格に古く、
有名な「青の洞門」(大分県)の寛延3年(1750)開通より半世紀も古いものである。


オイ オイ オイ !!


凄い展開になってきたぞ。
この隧道(トンネル)は 貴重な江戸時代生まれの隧道の中でも別格に古いぞ!


この事をヨッキれんさんは知らないけど どうする?
教えてあげる?


それと、常陸太田市 教育委員会 文化課の人は
この隧道に何の説明文もないので 貴重な文化財という事 分かってんのかな?


オイ オイ オイ !!
どうする?



この隧道(トンネル)は 時間によって 向こう(久昌寺跡地)から
ちょうど目の形をした瞳の位置から 光が差し込んできます。
今風に言えばインスタ映えするスポットで 
隧道(トンネル)の表現次第では 観光スポットになる可能性を
充分に含んでいると思います。


<追記>
私が最初にこの隧道(トンネル)に来ようとした時、地図を忘れました。
そのため 近郊をウロウロし 撤退しました。
案内板が欲しいと常陸太田市 教育委員会 文化課にメールをしました。
地図を忘れるといった失態が 真実に近づく事になろうとは...