里山で遊ぶ

ゆるい午後 遠回りする 帰り道
のどかな午後の時間を満喫できたらと思う。

約束

 


娘が 12月中頃に 日本へ帰ってくる予定です。


9月に帰ってきた時は 
台風とコロナで四国旅行をする事ができませんでした。

今回の長野旅行(王ヶ頭)は 行きたいです。


先日 海さんに 突然 叔父さんの訃報が...

海さんが高校1年生’(弟がまだ小学3年生)の時に 母親を亡くし 

その時から兄弟のように ずーっと面倒をみて頂いていた人で
まだ 信じたくないと言ってます。

とても素敵な人です。


以前 叔父さんの事をブログに書いてました。



海さんの叔父さんの家に行った時の事です。


叔父さんは 昔 魚を仕入れる仕事で 世界中を飛び回っていました。
世界中といっても アフリカや南アメリカなどが中心で 

漁業が盛んな どちらかといえばマイナーで貧しい国が中心でした。


叔父さんは 世界にはいろいろな人がいて 
沢山の経験をしたことを 楽しそうに話してくれました。
その話の中で 今回はカナダの田舎でのイクラの仕入れについてを紹介します。


捕獲した鮭を捌いて お腹から筋子を取り出し いくらにして
いくらを日本へ輸送する仕事です。
現地でいくらを取り出す仕事をする人たちを募集したところ
その中に 二人の女子高生が応募してきまそうです。


とてもきつくて汚い作業の為、時間給はかなり良いんですが 
女子高生がこのような仕事に応募するのは とても 珍しい事だそうです。


二人は対照的で 一人は作業内容をすぐ把握し 
テキパキと仕事をこなしました。 


もう一人は どんくさくて 仕事を覚えることも 作業も遅いが 
唯一 とてもひたむきで 真面目に仕事に取り組みます。


ある時 どんくさい子が お金はいらないから 

一人で残って仕事をさせて欲しいと申しいれてきたそうです。
周りに比べ作業が遅いので クビになると思ったのかもしれません。
このような事は 日本人にも言われた事がなく 
外国では初めてだと言ってました。

叔父さんは身振り手振りで
『お金はいらないから 仕事させて欲しいって言うんだよ。』
と嬉しそうに 笑顔で言いました。
叔父さんも 仕事が終わると 特にする事もないので 

一緒に仕事をして 作業の仕方を教えると 
徐々にではあるが 作業が早くなってきたそうです。

日本人と気持ちは一緒だなあ~と思ったそうです。 


バイトのお金を渡す日に 
そのひたむきな子に少々の色を付けて お金を渡したそうです。
何故なら 

『俺は日本人だから当然だろー』
と 叔父さんは言いました。


それを知ったもう一人のテキパキと仕事をする子がやって来て
猛抗議したそうです。
バイトのお金を水増しするのは私の方だと

大騒ぎしたそうです。
叔父さんは 
『俺がボスだ。俺のルールで決めたことで 変えるつもりはない。』
と言うと、

その子は近くにあったバケツを思いっきり蹴飛ばして帰って行ったそうです。


他に仕事がなかったのか テキパキ仕事をする子は
次の日に バイトに来たそうです。
叔父さんは その子に対して 

どんくさい子に仕事を教えられないか話しかけました。
教えるなら 少々の色をつけるからと。


叔父さんが日本に帰るときに 二人が自分達で作ったお菓子を
わざわざ 持ってきてくれたんだと楽しそうに話してました。
『二人には参ったよ!

 会社に無断で勝手にバイトに色なんてつけられないし
 二人のバイト代の色は 

 俺の自腹なんだよ。』
でも 言葉とは裏腹に 顔はニコニコしていました。


その時 奥さんが コーヒーを持ってきて、
『この人は このカップ以外は絶対に使わないので困ってんのよ。』
と言ってました。


見るとカップの面には薄っすらと幾何学模様のようなものが見えます。
毎日 使っている為に 絵が消えかかっていて よく分かりませんが、
太い直線のようなものがあり 珍しいデザインです。
また カップの縁にひび割れと欠けてるところもありました。


そのカップを叔父さんは大事そうに両手の手のひらで持っていました。


『両手で持つのに ちょうど いいサイズなんだよ。』と言ってますが...


私は 壁に飾ってある 額縁に入った英語の手紙を見たんです。
(英語の単語の下に 鉛筆で日本語の訳が書いてあり 早く読むことが出来ました)


私は 無言のまま 叔父さんに語りかけました。


~ 叔父さん。
  貰ったのは手作りのお菓子だけじゃないでしょ。
  お菓子の入ったカップの他に 手紙も貰ってるじゃないですか。
  そのお菓子の入ったカップの模様は 

  カナダインディアンのデザインですよね。
  カップを ずーっと 大切に使うのは二人との約束なんですよね。

  叔父さん 彼女たちにも忘れることにない『大切な言葉』があるみたいだけど。
  
  叔父さんが彼女達に言った大切な言葉って何ですか。
  知りたいな...

  


ゴジラ        ~ 今日もどこかで ~

これは富山県魚津市にある日本で1番綺麗だと思われる東山円筒分水槽です。


北陸を旅行した時の事です。
高速を降りて 宿泊先の宇奈月温泉に向かう途中、
剣道着姿の3人の豆剣士を見かけました。
きっと この街の防衛軍剣術隊の隊員だと思います。
その先で 道路まで水がぶつかる轟音のような 結構大きな音が聞こえてきました。
気になって 車を降り 音が鳴る方へ行くと 円筒分水がありました。


晴れた日が続いていたので 円筒から溢れ出る水は 
透明で 木漏れ日が 円筒分水槽の水面をキラキラと反射し
円筒層にへばりついた水草は 

勢いよく流れる大量の水に流されないよう
まるで 青空を泳ぐ鯉のぼりのように 

円筒分水槽の壁面にしがみつき
水の中でゆらゆらと揺れていました。


なお、富山の東山円筒分水に関しては 注意点がひとつ。
大丈夫だと思いますが、
剣道着姿の豆剣士は 心が汚れた人を見かけると 
汚れた心を追い出そうと 竹刀でボッコボコに叩きますので
綺麗な気持ちで 円筒分水を見られる事をお勧めします。


私の通っていた中学校はマンモスで 1学年で10クラス以上あり、
多分 全校生徒で1500人くらいいたと思います。
中学1年での始めての体育祭で、
各クラス毎にデコレーション(竹で作ったはりぼて)を製作することを知りました。
安全のため デコレーションの大きさの制限(多分高さ2m以下)はありましたが、
各クラスが何をつくるかは自由に決め それぞれのクラスで製作を競いました。
ほとんどのクラスは 達磨やチビ太やイヤミを製作しました。


1年4組では先生が 腎臓病で体育ができないY君に
はりぼて製作を中心となってやるよう指示をしました。
私はY君とは小学校の時から仲良しで 
中学になっても クラスは違ったが一緒に下校をしていました。
彼は勉強はあまり得意ではありませんでしたが、漫画はとびぬけて上手でした。
特に ゴジラの絵は 迫力がありました。
Y君の発案で4組はゴジラを作ることになりましたが、
誰が見ても 大きすぎて体育祭までに製作が間に合わない感じでした。
1週間くらい前から クラス全員で昼休みや放課後にも残って製作してましたが
おとなしかったY君が 妥協せず 背びれを追加したり 
尻尾を大きく再製作しだしました。
とても間に合いそうにない状況でした。
毎日 グランドの暗闇の中で製作してる生徒を見かねた体育の先生が
『校長室の上のサーチライトで1時間だけ照らすから1時間だけやったら家に帰れ。
 それと 朝6時に門を開けてやるから あとは朝に製作しろ。』

と言いました。
私は クラスが違ったので製作の手伝いはしませんでしたが 
Y君の 遅い下校と早朝の登校は 毎日付き合いました。


うす暗いサーチライトの中で はりぼてを作っている生徒を 
校長が 時々カーテンを開けては

覗いていたのを覚えています。


体育祭の当日 ゴジラのはりぼては 右足の一部を残して ほぼ 完成しました。
体育祭の間中 Y君を中心に数人が 右足のはりぼてに紙を貼り色を塗っていました。
ゴジラは どのクラスよりも 素晴らしい出来栄えでした。


だけど、体育祭が終わりに近づいた時、
体育の先生がやってきて、
『みんなよく頑張ったな。先生はゴジラが1番良いと思うけど
 大きさの制限に違反してるからな~。
 きちんと 採点してもらえるかどうか分からないんだよな~。』
と言って 立ち去っていきました。


不吉な予感です。


デコレーションの結果発表が始まりました。
1年生の3位から発表されました。
どのクラスも自分たちが作った はりぼてを 少しずつ前に押し出していました。
3位、2位の発表があり、最後に1位の発表です。
ゴジラは まだ 発表されていません。
きっと 1位だろう…
私は4組のゴジラが1位になるのを願いました。
誰もがゴジラが1番だと思ってたと思います。
でも 結果は 違うクラスが1番でした。
引き続き2年、3年の発表があり、

最後に校長先生のあいさつが始まりました。

4組のみんなのため息が聞こえてきました...


校長先生が、
『今年の体育祭は 本当に良かった。

 みんなが頑張ってる姿に感心した。
 そこで 今年は特別に賞を上げることを 

 先生全員で決めました。
 最優秀賞 1年4組 ゴジラ 』


大歓声が起きました。
4組はみんな泣いてました。
私たちの年代の男子は人の前で泣いたら恥ずかしいという風潮がありましたが、
みんな泣いてました。
Y君をみんなが押し出し、Y君が最優秀賞の賞状を校長先生から受け取りました。


私も泣きそうになりましたが 我慢しました。
2年や3年を押しのけて最優秀賞になったことがうれしいのじゃなく、
最後まで諦めないで 

みんなで頑張って作ってたことを
ずーっと見守って 認めてくれたことが 

ほんとに嬉しかったんです。


中学校卒業の時に バフン紙(わら半紙)で刷られた学校便りに
校長の言葉が載ってました。
『私は 体育祭のゴジラのはりぼてを 今でも 良く覚えています。
 薄暗い中、サーチライトで照らした狭い場所で ひたむきに
 黙々とゴジラを作ってる姿を 毎日 見ていました。
 体育祭の当日 何人かの先生がやってきて ゴジラに最優秀賞をお願いしますと。
 特に 体育の先生が 何度も お願いしますと頭を下げました。
 私も何か賞をあげたいと考えてたので 最優秀賞を送ることになりました。』


体育の先生 くさすぎるよ 全く!
昭和の香りがプンプンし過ぎて 鼻がもぎれそうだよ…


私はこの時の事を忘れることはありません。
これは 私の心の中に 今でも残っていて...


私自身の心の大きな支えになっています。